会場風景/撮影 泉山朗土 |
「とっとっと? きおく×キロク= 」が閉幕してほぼ1カ月が経とうとしています。みなさんのなかでどんな記憶として留められているのか、あるいはきれいさっぱり忘れ去られているのかと、担当者としては気になるところですが、と言っても私自身もまだまだ言葉にできることではなく、まあ、ゆるゆるってかんじです。
ちなみに展覧会への感想やコメント、あるいは文化会館やケンビにまつわる思い出はまだまだゆるく募集しておりますので、kjtkgch(a)gmail.com まで気軽にメールください。 (*メールアドレスは(a)を@に置き換えてください)
とっとっと? きおく×キロク=
活動報告
会期:2014年10月4日~11月24日(開催日数:44日間)
総来場者数:2,703人
満足度:90.8パーセント(アンケートによる)
関連活動:
オープンニングトーク/10月4日 参加者28人
日比野克彦さんの作品公開設置/10月5日 43人
映画『東北記録映画三部作』上映会/10月25日、26日 計13人
「とっとっトーク」(ゲスト田北雅裕さん)/11月3日 38人
寺江圭一朗さんとの「石トーク」/11月6日、13日、20日 計14人
クロージングトーク/11月23日、24日 計37人
博物館実習生による「家」型年表の展示とワークショップ
NORTH TENJIN PICNICSとの連携(10月19日)
Henry & Mathew制作のフォトフレーム展示
図録:
A5判32頁オールカラー
展示風景、出品作家(泉山朗土、今岡昌子、酒井咲帆、寺江圭一朗、菱川辰也、森田加奈子)プロフィールとステイトメント、出品目録、担当学芸員によるテキストを所収
主な掲載記事等:
1)新聞
竹口浩司「『東北記録映画三部作』生きた声を百年先に」『日本経済新聞』10月6日(夕刊)
白石知子「「記録」「記憶」未来へつなぐ」『読売新聞』11月8日(朝刊)
後小路雅弘「調和と違和が醸し出す空気」『朝日新聞』11月11日(朝刊)
竹口浩司「曖昧さの力」『西日本新聞』11月15日(朝刊)
南陽子「人を生かしてきた営み」『西日本新聞』11月17日(朝刊)
2)印刷物
『Fukuoka Art Date』(インターネットで公開された記事を随時再掲)
竹口浩司「声なき声を響かせるために」『民族藝術学会』(制作中)
3)インターネット
「ふ印ラボ」
http://keiyo-labo.dreamlog.jp/archives/2006437.html
「有座の住まいる」
http://arigozira.exblog.jp/d2014-10-05/
http://arigozira.exblog.jp/20348471/
http://arigozira.exblog.jp/20429813/
http://arigozira.exblog.jp/20227333/
「ViVi Girl Blog」
http://ameblo.jp/akiko-okuda/entry-11934509676.html
「理乃の福岡便り」
http://elsa-blog.seesaa.net/article/407338256.html
「Fukuoka Art Date」
http://fukuokaartdate.tumblr.com/post/100576721448/report-50-50
http://fukuokaartdate.tumblr.com/post/101820752198/report
http://fukuokaartdate.tumblr.com/post/103298249563/report-11-24-x
「Another Trip なんでも探検隊」
http://www.poss-kyushu.com/tanken/201411/index_1.html
「青い月」
http://aoi-tsuki.com/?p=5031
出演など:
「まちなかアートギャラリー」でのレクチャー(10月18日)
「コトコトアートカフェ」(ustream/10月20日)
感想、コメント、書き込み、つぶやきなど(抜粋):
●会話の力とは大きいものでありますね。(アンケート)
●とても居心地のよい空間で、会期中いつもぶらりと散歩しに来てしまいました。古き良きもの、新しき良きものとが同調し、共鳴し、過去と現在と未来と私を、今ここに存在させ、生きている今を幸せに思うこの1カ月半でした。(アンケート)
●ある人から「芸術はあたながいいと思うものがいい」と言われ、年に1,2回は鑑賞するようにしています。理由はなくよかった! 気分が晴れ晴れした。(アンケート)
●作品の配置や展示方法の工夫からなる視界の良さが素晴らしく、作品一つ一つも見ていてよい気持ちになれるものでした。(アンケート)
●新しい展示方法でとてもがんばっていると感じました。これからも有名作品でなくてよいので、あっと思わせる企画をお願いします。(アンケート)
●とっても意欲的、前衛的、展覧会ってこういうものという既成概念をうちこわす企画。収蔵品で勝負、キャプションなし、親切なアドヴァイザー(=ハンズさん)。とってもとってもFastenatingでした!」(アンケート)
●作品にキャプションがなく、いきなり向き合うことを余儀なくされるので、真剣に鑑賞する。そこへハンズさんの解説が入ってホッとする。観る側が試されているような緊張感を感じた美術展だった。(Twitter)
●答えを出さず見方を決めつけない展示が心地よく、キャプションも語りすぎない文字の少なさがとてもとても良かったです。(Twitter)
●「とっとっと?きおく×キロク=」。(…)正直さほど期待してはいなかったが、これが凄く良かった。松本英一郎の水彩や山本作兵衛、江上茂雄などマニアックなコレクションと福岡の若手作家6名とを組み合わせが絶妙、会場構成も面白い。(Twitter)
●記憶または記録されたものの優位性は語るまでもないが,忘れ去られたものの儚さにまで深く思いを馳せてしまった。忘却は究極の美学か。(Twitter)
●今日は夕方から、絵画教室の生徒さんの展示を見に行った流れで、福岡県立美術館で開催している"TOTTOTTO?KIOKU×KIROKU」"の展覧会を観に行った。福岡県立美術館50周年を記念した展覧会。
尊敬する野見山暁治さんの「ノルマンディーの子供」、初めて知ったが孫雅由という画家の「形態の消去」、素晴らしかった。今回のテーマに即し県美の所蔵と、若手作家の作品等、約30名弱の作家の絵画、写真、立体が展示してある。
箱を積み上げた壁、突如現れた小窓からの先に菱川辰也の風景画が目に入り、奥に進む程暗くなる。作品の並びも大変興味深く、美術品倉庫に紛れ込んだかの展示風景。絵の横にキャプションは無く、入る時に作品説明のプリントが手渡される。キャプションが無い事で絵に物凄く集中することになった。
見終わって、結局1時間程度しかその場に居られなかったが、自身の中にあるノスタルジアに触れた様な不思議な気持ちになった。とても良い展示。こういった展示が増えるといいなぁ。また期間内に観に行きたい。(Facebook)
●今日さっそく展覧会を観に伺いましたが、福岡県美の所蔵品、福岡をベースに活動する作家6人が「記憶と記録」という展覧会タイトルからそれぞれに立ち上げていった作品、県美の記憶を湛える資料や言葉が、巧みな空間構成(空間を作るひとつひとつが記憶と記録を抱え込んでいるのも見所)のなかで層を成しながら重なり、じんわり沁みこんできました。私にとっての○○ってなんだろう?と考えたくなる、何度も足を運びたくなる展覧会です。(Facebook)
●空間や時間の流れを行ったり来たりするような感覚でした♪(Facebook)
●本日は、てくてく天神にある福岡県立美術館へ。改装作業が終わり、またこの美術館に行ける楽しみが復活いたしました。
須崎公園に隣接し、天神の中心から徒歩で行ける理想的な立地の美術館ですが、福岡に住んでいても知らないひとが多いようです。リニューアルした看板に思わず、クスッと笑みが浮かびます。
本日は、「TOTTOTTO?KIOKU×KIOKU= とっとっと?きおく×キロク=」というタイトルの展覧会でした。来たる11月3日で、50回目のお誕生日をむかえる美術館の記念的な展示です。
まず、素直な感想として、「宝石をちりばめた」ような展覧会でした。とにかく、貴重な作品が多い。なのに、あまり「アート」だ「芸術」だと考えず、日常の地平にあるものとして、工夫した展示になっている点が素晴らしい。学芸員さんと会場設営の皆様の視線が非常にやわらかく心地よいです。これだけでも行く価値ありです。
作品としては、いきなりエントランスの日比野克彦さんの「ONE NIGHT A DAY」(1984)に目がとまります。東京藝大の卒業制作作品。伝説の「ダンボールアート」を見ながら、作品は発表されてからも固有の時間を耐えながら、生きているのだなあと感じました。素材がダンボールであることが、余計に様々なことを考えさせてくれました。
阿部金剛さん、伊藤研之さんの作品も相変わらずいいなあとついつい見入ってしまう。古賀春江さんの作品も何度見てもため息が出るし、江上茂雄さんのパステル画見ると、ホッとする自分がいる。奥にある上田宇三郎さんの「人物 二重像」(1946)は戦後すぐつくられたとは思えないくらい美的感覚が戦慄が走るほどに溢れている。芸術家だなあ、と一目でわかる。
現代アートとしては、寺江圭一朗さんの「石とラブレターとテレパシーとコントロール」(2014)という映像作品にとりわけ心魅かれた。「石がなかったら、大変なことになっちゃうと思うんですよ」(間違ってるかも……)と石の横で語られている姿に現代のアーティストの孤独が結晶化しているように感じた。
あとは、やはり髙島野十郎先生の「蝋燭」はいつ見てもことばにできない感動がある(その本来ことばにできないものを何度もことばにしてきたのですが……)。様々な表現があるが、この絵は「別格」だなあと改めて思った。あの展示空間もお稲荷さんの「鳥居」のような細長いスペースになっていて、銀河へのびる廻廊のような不思議さがあった。(Facebook)
●福岡県美術館のT O T T O T O ?に、行きました。ほんとうになつかしい自分の記憶に出会うことができました。この噴水の周りで遊んだり、野外音楽堂でコンサート聞いたりしました。モナリザも見に行きました。電話でモナリザの声が聞けるなんて、ありました。そして画家寺田健一郎さんの絵と奥様翠先生の動画に出会えるなんて、うれしい、なつかしい。寺田先生に油絵を教えていただきました。私の子どものアトリエのきっかけを作ってくださった翠先生、伊藤茉莉さんのインタビューに、胸が熱くなりました。なつかしい記憶で私は作られて、今があるのだとしみじみ感じた日でした。そして、若い頃憧れていた日比野さんに出会うことができました。(Facebook)
●前回から記憶・思い出の事をよく考えてました。人は成長するにつれ記憶や思い出をたくさん抱えてしまう。大人ってのはそういう生き物なんじゃないかとか。それで泣いたり笑ったりするのは大人だからできる事なんだとか。でも忘れてしまうのも人間の性だなとか。「記憶」のメディア、ラジオなんかがそうじゃないかなあとか。桜とかイルミネーションとかの思い出があまり無いっていうのは友達少ないってこと・・・とか。作品のこととあまり関係ないことだけど、記憶のようなものが作用するような時ってたくさんあるなあと日常空間で感じていたとこをあれこれグルグル考えてました。
今日はまた別の事を考えていた。
伝える・伝わるってどういうことなの?
今回の展示会は作品を観ていてモヤモヤ(by竹口)するようなことが多かった。まず作品の解説がないのね。だからまず観覧者は自ずと様々な想像を働かせて作品に埋め込まれたメッセージに迫っていく。でもねズレてたり、当たったような気がしても言葉にならなかったり。そこで発生するなんだか知恵熱ような摩擦熱ような熱があって。そこから作者への興味や愛着のようなものが生まれたり、作者本人に話してみたり、リサーチしたりと観覧者のアプローチが幾重にも行われる。そこで何かと誰かと繋がると何かが花開くんじゃないかと。それはごく当たり前のことなんだけど、うまく出来ないもの。自分は本展示会での作品のスペックのことなんかほとんどわかんなかったけど、3回も行ってしまった。で毎回違う事考えてた。あの変な学芸員さんや作家の人たちに踊らされてたんじゃないかって気がしないでもないけど、不思議な実験室に出会ってしまったような感覚。(Facebook)
●本日は、2回目の「とっとっと?きおく×キロク」展に、天神の福岡県立美術館へ。
前回、気になっていた作品「石とラブレターとテレパシーとコントロール」(2014)の作者である寺江圭一朗さんと学芸員の竹口浩司さんの「石トーク」がひそかに行われるということで出かけた。
内容は、多岐にわたり、総括すると「芸術論」に近いと言えるだろう。かなり面白くて、あっという間に時間が過ぎた。印象に残ったのは、竹口さんの「占い」をめぐる話。超常的なものや神秘的なものから切り離された近代以降の現代人。体験が個人の世界の見え方を変えることについて、深く考えさせられた。また、何かを伝えようとしても、伝えられないもどかしさについても、議論は及んだ。それは、単純なコミュニケーションの不全を示唆するものではなく、芸術作品そのものの受容の問題も内包しているように思われた。
寺江さんの作品は、映像作品であり、寺江さん扮する石職人が日々石を作る姿をドキュメンタリー形式で追ったもの。その発想も面白いが、映像の中で登場する居住空間である「小屋」の造形こそが、寺江さんの美術作家としての本領が発揮されているのだなと改めて感じた。
寺江さんは、映像の中で石についての並々ならぬ愛着を語るが、この作品はとりたてて「石を大切にしよう」ということを伝えたい訳ではない。どこにでも転がっている石をあえて「作る」というところに、芸術の原初的な発生段階を見ることができるだろう。自然にある素材を加工し、「作品」とすることで石はただの石ではなくなる。この「石」とは芸術のことに他ならない。つまり、これは芸術そのものへのラブレターであり、そことの交信=テレパシーでもあるのである。
映像の終わりで、石職人は青年から質問を受ける。
青年「この映像は何なんですか?」
石職人「この映像は、……何なんですかね」
これが恐らく言いたかったことではないだろうか。芸術は一体何をひとに伝えて、何のために存在するのか。その終わりなき問いを寺江さんは全力で作品を通して、見る者に投げかけようとしているのではないか。デュシャン以後の現代芸術の出口なき世界を照らすちいさな灯りが寺江さんの作品にはあふれている。
様々な話を聞きながら、そのようなことを考えた3時間だった。(Facebook)
●福岡県美で始まったこの展覧会、ちょっと面白い。
事前の広報などからして、てっきり会館50年記念(文化会館時代もいれて)のアーカイブ展かと思っていたら、「記憶」や「記録」をテーマにした、現代美術展なのでした。
ちょうど横浜トリエンナーレも、「忘却の海」というテーマで「記憶」の問題を扱っています。18世紀には「歴史画」の評価が一番高かったように、美術の一番重要な機能として、歴史を「記憶」「記録」するということを、美術はこれまでやってきました。
80年代、特に90年代から、美術に意味・内容が復活したことと、また、ポストコロニアルな問題で近隣諸国ともめている時代状況もあって、「記憶」「記録」というテーマが、日本でも再浮上してきたようです。
さて最後に、この展覧会で特に良かったのは、坂崎隆一氏による会場構成です。ある意味、全体が坂崎くんの作品と言ってもいいでしょう(と、本当はこんなこと言っちゃあいけないのだけど、あえて言いたくなるぐらい、良かったということです)。お勧めの、お勧め!の展覧会です。(「和田絵画教室 せっかくBSS」)
●いまさら四葉のクローバー、四つのお願いでもあるまい。
20日(木曜)夕刻に、久々に東中洲から歩いて(天神へ行く予定だったが、行先が16時で閉まっていることをバスのなかで知り、急遽変更)、須崎公園のなかの福岡県立美術館へ行く。「とっとっと?きおく×キロク=」展を見るため(本日まで開催)。
県立図書館が同居していた福岡県文化会館時代(1983年まで)は、よく足を運んだが、最近は年に1回も訪れていない。古いアルバムを見たら、1970年のミレー展も現在の同居人(住民票ではボクが世帯主となっているが、実態は逆転)と一緒に見に行っていた。東京のT教授など、「デート先はいつも古本屋」という誤った伝説を、ことあるごとに流布させているが、この写真でくつがえせる。
閑話休題。県立美術館で、今回の展示にちなむ絵葉書をもらってくる。A4判1枚だが、切り取ると4枚セットになる。選ばれたのは阿部金剛「Rien No.1」、高島野十郎「無題」、片山摂三「安永良徳 パイプ(メデューサとサタン)」、山本作兵衛「木枯し」。
阿部金剛は、詩誌「リアン」創刊の契機となったとされる1929年の作品。松本英一郎の「さくら・うし」シリーズにも通じる構図(松本「退屈な風景No.2」と同じく、空にUFOみたいな物体が浮かぶ。阿部では、飛行船ツェッペリン号とされる)。会場には、古賀春江「窓」(1927)も展示されていた。この2点の絵画だけでも見にいった甲斐がある。大作主義ではなく、大家も新人も同一の空間に並べる。展示のキャプションや案内も詳しくなく、見たい作品を探し廻る。それが、かえって好感を持てた。(「スカラベ広場?」)
●更紗の裂に添えられた文章を読んでいらした女性が「あ、ここに今の私の気持ちが書いてある。この文章を読んだだけで今日来た甲斐があったわ」と。最近ふさぎ込むことの多かった女性を、気晴らしになればとご主人が連れ出されたようです。後から来られたご主人に、今度は声に出して文章を読んで聞かせて「これが私の今の気持ちよ」とおっしゃられ、私に「よかったわ」と告げて帰られました。(スタッフからの聞き取り)